日米戦争について考える

なぜ今頃そんな話を?

日米戦争(1941-1945)というのは、当時はもちろんのこと、その後も、わが国の在り方や私たちの生き方に多大な影響を与えた大事件であった。この戦争に関して、私たちは「日本が始めた戦争であって、悪いのは日本である。」という教育を受けてきたし、新聞等の論調もそんな感じであった。私自身もそれを信じてきた。

しかし、ヴェノナ文書が公開され(1995、日本語版は2010あたりに出ているが、絶版となり2019に再版)、さらにフーバー大統領の回想録(2011、日本語版は2017)が出版されたことによって米国大統領周辺の策謀が明らかになり、この戦争は米国主導であったことが、主に米国の研究者によって明らかにされてきた。

日本は、ルーズベルト大統領が主導した策謀で戦争へと追い詰められていくのだが、日本の中にも戦争をする方向に動いた者たちが居たことも確かである。日本側の戦争責任者に関しては、“東條を含む陸軍の中枢部”とするのが従来の論調である。近年では、山本五十六による真珠湾攻撃は東條と関係なく行われたことが知られるようになり、また日本国内にさまざまな対立勢力の争いが有ったこと分かってきた。しかしなお不明なことが多く、戦争へと進んだいきさつや責任者を明らかにすることは難しい状態である。

林千勝氏の著書(「日米戦争を策謀したのは誰だ」、「近衛文麿」)では、日本側で戦争にかじを切ったのは近衛文麿であるという考えを提示している。近衛首謀説を論じているのは他には倉山満氏くらいで、なお少数派であるが、従来の東條首謀説はかなり無理があり、近衛説が正しいように思える。

このメモは日米戦争を一通り知ることを目的としている。したがって日米戦争に関連する具体的な出来事を中心にまとめた(年表などを先に出しているので、本文は5ページ中段より)。戦争には、歴史上のいきさつ、侵略を当然とする西洋人の体質、政治家や軍人の思惑や金銭的欲望、財閥の動きなど、裏側には複雑なことどもが横たわっている。そのあたりを見ないと戦争の全体像は理解できないのだが、先ずは日米戦争の具体的進行を追ってみる。戦争の原因などについては、あらためて書くことにする。

 

関連事項(年表、背景など)

第一次世界大戦以前

・1840-(約2年間) アヘン戦争 

・1846-1848 アメリカ・メキシコ戦争

・1853 ペリー来航(嘉永6年)

・1854 日米和親条約(嘉永7年)

・1858 日米修好通商条約(安政5年)

・1861-1864 南北戦争(当時のアメリカの人口は1416万人、中国4億、日本2760万)。戦争終了で不要になった武器が日本(薩長)に流される。

・1863 ジョン・ロックフェラー、スタンダードオイル社設立。

・1868.10.23 明治維新

・1894.7.25-1895.4.17 日清戦争(下関条約で、台湾は日本に割譲)

・1895 三国干渉。日清戦争で得た遼東半島の使用権を、清に返還せよ(欧州各国が狙っていた支那の権益分配のじゃまになるから)ということ。三国とは仏、独、露だが、基本は露の南下政策(満州に海への出口を作りたい)。アメリカもこの件で、中国との貿易関連で得をしている。 

・1898 アメリカがハワイを合併

・1898の米西戦争の後、米比戦争。1902にフィリピンを米の植民地に。マッカーサーの父親が最高司令官(10歳以上の子供は皆殺しにせよと命令)。

・1903 フォード自動車設立(2度失敗して、3度目)

・1904.2.8-1905.9.5 日露戦争。当時は日英同盟あり。(戦争終了後にセオドア・ルーズベルトが主導して、これを廃止へ持っていく。)

・1910.8.29 韓国合併

・1912.7.30 大正元年

・1917 ロシア革命(2月革命と10月革命があるが、ソビエト革命またはボルシェビキ革命というのは後者)。レーニンは、最初は選挙を採用。しかし第2党になったので、独裁に切り替えた(共産主義国家の非道はここから始まったのではないか?)。

 

第一次世界大戦(1914.7.28-1918.11.11)以後 

・1919 コミンテルン設立。中国では1920、日本では1922に支部(ゾルゲ、尾崎秀美)。

・1926.12.25 昭和元年 

・1929 大恐慌(10月24日と29日、株価大暴落→世界中を混乱に)

・1920 国際連盟発足(1946解散)

・1925-1961 IPR(太平洋問題調査会)がホノルルに設立される。嫌日親中の共産主義者が多く入る。ルーズベルトが大いに利用。初期には、日本はまじめに対応(後述)。

・1931満州事変(柳条湖事件)

・1932  3月に満州国建国。リットン調査団(3-6月)。 10月2日に発表。

・1933  2月、リットン報告書を国連で審議。日本は、即国連脱退。秋には、ドイツも脱退。

・1932 五一五事件

・1933- ニューディール政策。恐慌を克服するための政策。議会の議論を経ずに大統領が多くを決めることができるように(軍需物資の生産など)。ロックフェラーの意見を反映。

・1936 二二六事件

・1937.7.7盧溝橋事変。蒋介石軍と日本軍で、停戦協定は成立していた。これを崩した者がいる(後述)。8月、支那事変(日中戦争)始まる。 

 

第二次世界大戦(1939.9.1-1945.8.15)開始以降

・1939.9.1 ダンチッヒ問題。ヨーロッパの真珠湾とも言われる(第二次世界大戦の始まり)。これもルーズベルトが関与。ダンチッヒ(ドイツ-ポーランド国境の都市)は、もとはドイツ領。しかし、第一次世界大戦の後に自由都市に。

・1939年5月-9月 ノモンハン事変(戦争)(9月15日、ソ連は急遽停戦してポーランドへ向かう。) (日本も参謀本部は停戦命令)

・1939.8.23 ノモンハン戦争の最中に、独ソ不可侵条約締結(日独防共協定のある中で)。国際政治には「誠実さ」などありえない。

・1941年6月22日 ドイツがソビエトに侵攻。これは真珠湾の半年前。

・ポーランド、オランダ、ベルギー、フランスなどが降伏。

・日米戦争(1941.12.8) これは、第二次世界大戦への「日本参戦」と言われる。それは正しいのだろうか? 

・1944.6.6 ノルマンディー上陸(米軍中心。イギリスでの出撃基地は、ロスチャイルドの施設。)

・1945 2月 ヤルタ会談

・1945.4.30 ドイツ降伏

 

関連する国のトップ

・レーニン (1917から1924)ロシア10月革命。政権の中核メンバー(約20人)は、ロスチャイルド系のユダヤ人。 

・スターリン(1924-1953)

・ヒットラー(1933.1.30-1945.4.30)

・ムッソリーニ(1922-1943.7.25)ファシズム(結束主義)の提唱者

・チャーチル1940.5.10-1945.7.26(ポツダム会談は7月25日)、および1951.10.26-1955.4.6

・蒋介石 複雑であるが、1928-1931に中華民国(国民政府)第3代首席、1943-1948に第5代首席。1948-1975初代総統(台湾)

・毛沢東 これも複雑だが、詳細は別に書いている(別の機会に話す)。中国共産党初代中央委員会主席(1945.6.19-1976.9.9)

・モンロー大統領(第5代)(1817-1825)アメリカはヨーロッパに干渉しない主義。これは、ヨーロッパもアメリカ大陸に干渉するなという意味でもある。

・フーバー大統領(1929-1933.1.20)ルーズベルトの戦争参加推進を批判し続けた。ただしこの人も聖人というわけではない。ロスチャイルド系。

・フランクリン・ルーズベルト大統領(1933-1945)母親一族は中国でのアヘン取引で財を成した。就任後間もなくソビエトを承認(世界中が驚く。多くの国を占領、虐殺。国内での大粛清も知られていた)。セオドア・ルーズベルト大統領(1901-1909)は親戚。 

・トルーマン(1945-1953)ルーズベルト死去により副大統領から昇格

 

戦前戦後の総理大臣

・犬養毅、高橋是清、斎藤實、岡田啓介、広田弘毅、林銑十郎と続いて、

・近衛文麿(第一次)1937.6.4-1939.1.5 (風見章を書記官長に)

・平沼騏一郎(官僚)1939.1.5-1939.8.30 (山本連合艦隊司令長官41.8.11まで)

・阿部信行(陸軍) 1939.8.30-1940.1.16 (山本長官)

・米内光政(海軍) 1940.1.16-1940.7.22 (山本長官)

・近衛文麿(第二次)1940.7.22-1941.7.18 (山本長官再任、43.4.18死亡)

・近衛文麿(第三次)1941.10.18-1941.10.18

・東条英機(陸軍) 1941.10.18-1944.7.22  

・小磯国昭(陸軍) 1944.7.22-1945.4.7

・鈴木貫太郎(海軍)1945.4.7-1945.8.17

・東久邇宮(陸軍) 1945.8.17-1945.10.9 (近衛は副総理)

・幣原(官僚)   1945.10.9-1946.5.22

・吉田(第一次)  1946.5.22-1947.5.24 (鳩山を首相予定として選挙したのだが。)

  片山、芦田とつづいて、

・吉田(第二次~第五次) 1948.10.15-1954.12.10

 

侵略の時代

・ヨーロッパの国々による植民地支配(初期)

コロンブス(スペイン人)によるアメリカ大陸発見(1492)と、バスコダガマ(ポルトガル人)が喜望峰を回ってインドへ抜けたこと。これらによって、スペインは南北アメリカ大陸を、ポルトガルはアフリカを支配する(例外はある)ことに決めた。1522のマゼラン(ポルトガル)による世界周航(マゼラン自身は1521年に死亡。部下が就航達成。)も関連。

・ヨーロッパの国々による植民地支配(その後)

17世紀に入って、イギリス、フランス、オランダ、ベルギー、ノールウェーなどが力をつけ、植民地獲得に乗り出す。アメリカ大陸、アフリカ大陸に続いてアジアにも進出。アメリカ(現在の米国)は細分化されたが、後に独立(白人国だから)。

イギリスは東インド会社を設立(1757)し、19世紀には全インドをわずか2,000人で支配(悪辣な支配方式)。オランダも同じく東インド会社設立。その後フランスも加わる。オーストラリア、ニュージーランドはイギリスが取る。

アジアで植民地でないのは、日本とタイのみと言える状態(タイは、緩衝地帯として残された面がある)。(中国で植民地となったのは香港だけだが、沿岸部は列強によって権益をむしり取られている。また、大量の阿片を持ち込まれている。)

・植民地支配ができたのは、文明・技術などの格差が大きかったから。また、人種差別が根底にあって、民生や教育をやらないなどと言うレベルではなく、旧来の社会を崩壊させて奴隷化して支配。

・パリ講和会議(1918)。第一次世界大戦の後始末。このような悲劇が二度を起こらないことを目指したのだが、実際には21年後の第二次世界大戦の種を蒔いたと言われる。日本は人種差別撤廃案を提出。おそらく国際的な会議で人種問題が論じられた最初のこと。しかし、これは否決された。実は賛成多数だったのだが、米大統領ウイルソンが、このような重要案件は全会一致が必要と、強引に否決。

・アジアで、非白人国家として唯一文明開化した日本が生き延びるには、列強と対抗できる国力が不可欠。日本は台湾、満州、朝鮮を支配下に置いたが、欧米人による植民地とは明らかに異なっている。欧米人による植民地ではまともな民生はなく、住民を奴隷状態にして搾取していた。日本の場合は、産業、民生、教育などを本国と同じレベルに引き上げる政策をとっている(台湾は清から割譲、朝鮮は植民地ではなく併合。当時は合法。満州は、形式上は独立国)。

・ロシアは周辺国を侵略し続けていた(虐殺と粛清の国)。アジアでは、不凍港の獲得のために朝鮮または満州を支配することを明確な目標にして行動(1904-5の日露戦争の原因も同じ)。朝鮮も満州もロシア(ソ連)に対抗できる自衛力はない、というより国家の体を成していたかが疑問というレベル。これを放置することは日本の自滅(たぶん植民地にされる)につながるわけで、この時代としては、併合はやむを得なかったと言えよう。フーバーは、このあたりのことはあまり理解していない。

 

 

日米戦争(日米戦争は第二次世界大戦とひとくくりにできるのか?)

 

第二次世界大戦前のこと

・第二次世界大戦は、ヒットラーのドイツがポーランドに侵攻した(ダンチッヒ問題、先述)ことで始まった、ドイツとポーランドとの戦争から始まる。英、仏がポーランドの後ろ盾で、その後ろにはルーズベルト/ロックフェラーが。英、仏が2日後にドイツに宣戦布告し、全ヨーロッパに拡大していった。主にヨーロッパ内の戦争で、日本は無関係であった。真珠湾攻撃は、その2年3か月後のこと(1941.12.8)である。

日本は支那事変(日中戦争)だけで大変で、他国と戦争をするつもりは無かった。特にアメリカと戦争するする理由もつもりもなかった。(実はドイツもアメリカとの戦争は、アメリカの執拗な挑発にもかかわらず、回避し続けていた。) 

・ルーズベルト/ロックフェラーは戦争を望んでいて、何とか戦争に参加しようと画策を続けた。

 ロックフェラーは、アメリカの石油精製事業を事実上独占していて、巨大な資産を得ていた(資産は当時のGDPの2%以上。これは現在の価値では20兆円ほど。しかし、現在の資産はその数十倍から数百倍になっているはず。)。彼らは、資産格差に対する国民の反感を逃れる方法を模索していた(初代のジョン・ロックフェラーは事業拡大のみで、二代目以降のこと)。方法の一つは、寄付や奨学金を出すなどの慈善事業である。あと一つは、国民に新たな課題を与えて、そちらに夢中にさせることであった。すなわち、国家間の対立やイデオロギーの対立などを作り出す方向に動く。その目的で、スターリンのソ連を利用している。ソ連に莫大な武器援助を行ってヒットラーと対抗させ、太平洋側では中国共産主義勢力をサポートしているソ連と組んで、日本を悪者に仕立てる努力を続けた。(支那におけるルーズベルトの援助先は蒋介石側だが、ソ連は毛沢東に援助。)(ソ連は逆に、コミンテルンメンバーを使ってアメリカ操っていた。) 

・1931年、日本は満州を併合。→32年3月、満州国建国。(満州はもともと支那ではない。満州族の清が支那を支配していて、これが崩壊して満州へ逃げた。この間、皇帝溥儀は日本に頼った。)

 すぐにリットン調査団が満州、支那、日本へ出張して調査(3月―6月)。 

33年2月に国連(国際連盟)で報告。日本は、ただちに国連脱退。

(勧告では、満鉄は日本の権利とするなど、マイルドな面もある。国連脱退はしない手も有ったという意見アリ。秋にはドイツも脱退。)

・ロックフェラーら大財閥が戦争を望むのは、武器等の軍需産業が莫大な利益をもたらすからである。ヨーロッパで戦争があれば、大量の武器を送るために国が武器を買い上げてくれる。太平洋で戦争が起これば(すなわち日本と戦争すれば)自国民を戦場に送る必要があり、さらなる仕掛けが必要だが、軍需産業はもっと潤う。

・ルーズベルトの母親は、支那におけるアヘン取引で資産を成した家系で、基本において中国側の人間である。戦争に勝てば、軍需産業以外からも何らかの利益が得られるのかもしれない。日中戦争のずっと前から一貫して支那(蒋介石)に武器援助を行っている。  

・しかしアメリカ国民は、戦争を全く望んでいなかった。“日本から戦争を始めさせる”ことが、国民を参戦に同意させるために不可欠であった。 

・日本(とくに陸軍)は、盧溝橋事変(1937.7月)に始まる支那事変(日中戦争)がたいへんで、アメリカと戦争するつもりはなかった。石油や鉄の輸入を頼っているアメリカと戦争すれば、国が成り立たなくなることは政治家や軍人の多くが知っており、発言もしている。(日本はペリー来航以来、アメリカに敵対的であったことはない)。

・東條陸軍大臣(近衛内閣)の時、机上演習で、日米戦は「日本必敗」と出る。

・その後、秋丸機関(陸軍のシンクタンク)をつくって経済面からも検討:米国とは戦争すべきでない。石油はインドネシアで調達せよ。インド洋に出て、イギリス軍の活動を止めよと結論。これが陸軍の基本方針となる。

 

ルーズベルト/ロックフェラーの陰謀

・ルーズベルト/ロックフェラーは、日本との戦争を目指して周到な準備を行う。

  • アジアの共産主義者は、基本において親中排日である。これを政権に取り込んで、反日工作に使う。ついでに言及すると、ルーズベルトはヨーロッパでも同じことをしている。すなわち、ヨーロパでの戦争参加を目指してドイツの危険性を宣伝することに励んでいる。(ヒットラーはアメリカとの戦争を望んでいなかった。ルーズベルトは、ドイツ潜水艦の攻撃を受けたなどと言う作り話を流す。さらに、ドイツ戦艦への攻撃も行っている。それでも、ヒットラーは耐え忍んでいる。)
  • アジアでの対日戦に向けたプロパガンダには、IPR(太平洋問題調査会、下記の“注”に説明)を使う。IPRは、たてまえは平和維持のための民間の懇談会的なもの。日本側の初期メンバーはアメリカの陰謀を知らずに、平和目的のための努力をしていた(新渡戸稲造やトインビーもメンバー、ただし新渡戸は怪しいという意見もある。)。実際にはロックフェラーとルーズベルトが、日本を戦争に巻き込むために作った組織。
  • 1929年の株価大暴落に続く恐慌を克服することを目的とした「ニューディール政策」においては、大統領が強い決定権を持つようにした(軍需物質等の生産に関して議会の承認を経ずに行うことが可能に)。ニューディール政策の案件のほとんどは、ロックフェラー財団から出ている。(これは、対ヨーロッパ戦略でもある。)

・ルーズベルトは「支那が日本に勝てるはずはない」とみていたので、日中の全面戦争は避ける方向で動いている。支那に武器援助を続けて戦わせ、日本を疲弊させて、そのあとで日本を簡単に倒すことが望みである。(3-4か月で日本を滅ぼすつもりであった。)  

・日中を戦わせることは、スターリン(ソ連)の望みでもある。スターリン(ソ連)は、日

本が疲弊すればそれだけでも満足(日露戦争の恨み)なのだが、日中が戦っていればドイ

ツとの戦争に専念できる利点がある。

 

注)IPR(太平洋問題調査会):

・IPRは、建前としては、環太平洋地域の国々の相互理解と文化交流を図ることを目的とし

て作られた(1925)民間レベルの懇談会だった(国際連盟が十分に機能しないので、これ

を補う意味もあった)。ルーズベルト/ロックフェラーは、このIPRを日本との戦争準備

のために巧妙に使う。多数のコミンテルンメンバー(共産主義者)を入れ、そのメンバー

を政権内に取り込む。(戦後、マッカーシーによって共産党員として追放されたアメリカ

政府職員は、1,500人ほど。その際に、1万人ほどが辞職している。)

・近衛首相(後述)もルーズベルトに倣って(?)、日本のコミンテルンメンバーを入れて、日米メンバーで日本を戦争に向かわせる方向にもっていく。日本の国際的孤立も画策。(日本の首相が裏でアメリカ側の陰謀と協力している奇怪さ!)。

近衛が入れた日本のメンバーとしては;蝋山政道、牛場智彦、風見章、尾崎秀実、松本重

治、白洲次郎など。

 

日本の動き(とくに近衛の)

・日本にも日米戦争を望んでいた者がいた。近衛文麿(公爵)である。

 近衛家は天皇家に次ぐ銘家で、これを自認。ヒットラーにあこがれていた。ヒットラー的

なカッコよさで、国民にも人気があり、早くから活躍。1919のパリ講和会議にも出席(吉

田茂、松岡洋右、重光葵らとともに)。

・アメリカと戦争して負けること、そして負けた責任を昭和天皇に取らせて退位させ、自分

が天皇になることを望んでいた面もある。退位の方向で、周到に工作をしていた。

・盧溝橋事件(1937.7.7、日中戦争すなわち支那事変の引き金となった事件、中国側の日本軍への発砲から始まったとされているが、共産軍兵士が日本軍と支那軍両方へ発砲したものという。)この時の近衛/風見の動きは、想像を超えている(第一次近衛内閣は、6月4日に発足)。

・対ソ連を重視する皇道派も、石原莞爾(37年9月までは参謀本部部長、派閥に属していない)も、中国との戦争はありえないとの考えである。

 日本陸軍の中枢部(1935年あたりから統制派が占める)も、対する蒋介石軍も不拡大方針で、現地では停戦協定も成立していた。しかし、近衛/風見は(尾崎秀実=コミンテルンを使って)蒋介石軍を攻める方向へと進める(マスコミの利用も)。じゃまになる石原莞爾を閑職に追いやり、発言を封じる(満州をソ連に渡して、蒋介石を滅ぼすことが狙い。これはコミンテルンの基本方針。)。このような対応に対して、7月17日には蒋介石も徹底抗戦を決意。

・こうして、近衛とルーズベルトの“共同作業”で、支那事変(日中戦争)へと進む。(ただし宣戦布告は1941年12月9日まで行われていない。この日に蒋介石が布告。)

日中戦争が引き返せないところまで来て、10月14日のゾルゲ事発覚を見て近衛は10月18日に内閣総辞職(戦争の責任を東條に取らせることが目的)。

・米国との和平を模索することを条件に東條(陸軍)に大命降下。昭和天皇の意思(アメリカと戦争しては勝てないという意見)を汲んで戦争を避けようと努力。これに対してルーズベルトは、ハルノートをぶっつけてくる(後述)。もはやこれまで。

ゾルゲと尾崎との関係を明らかにしたのは、首相になってすぐの東條。しかし、戦争が始まって、近衛の追及は難しくなった。

・少しさかのぼるが、ニューヨークタイムス記事に(1937.8.31)「日本は戦争拡大を望まず。戦争は中国によって追い込まれた」と。また、ローマ法王声明(10月)「日本の行動は侵略的ではない。共産主義化と戦っている(共産軍と戦争をしていることは確か。ただし共産軍はすぐに逃げる)。カトリック教会、信者は協力せよ。」

 

・近衛の発言や、行動はひどいことばかりである。

大東亜共栄圏構想(発想は蝋山政道、マスコミが言い立てる)、国家総動員法(1938、市町村、部落、隣組に至る組織化)、政党政治の否定(1940.10.12大政翼賛会をつくる。ほとんどの政党が“自発的に”合流)、三国(日独伊)同盟(1940.9.27)南部仏印進駐(対日全面石油輸出禁止の引き金となる)など。

日米戦争が第二次世界大戦と呼ばれる理由は三国同盟があったからと考えられるのだが、実際には、この三国同盟には参戦義務は書かれていない。石原莞爾はヨーロッパでの戦争を“第二次欧州大戦”と呼んでいる。

(下記のように、もっとひどい行動が続く。)

・1941年7月頃には、近衛はルーズベルトに首脳会談の働きかけを行っている(これは表向きの和平工作。すなわち、“和平派であった”というアリバイ作り。ルーズベルトは無視)。しかし皮肉なことと言うべきか、一連の偽装工作は、わが国の多くの本では本気と取られているようで、戦後史の著書の多くで近衛は和平派として扱われている。

 この頃には近衛は、敗戦後に覇権を握るために、自分が利用してきた共産主義者を悪者に仕立てる準備を始めている。その集大成が「近衛上奏文」(陸軍内に共産党革命を画策している者、とくに統制派、がいる。この者たちを粛清すべし=自分のやったことを知る人物を抹殺することが目的か)。これは、ヨハンセングループ(Yが中心だがSも入っている)すなわち親米和平派(この言葉は虚偽に満ちている)のYらを取り込んで仕上げた文書である。これを天皇に上奏(1945.2.14)。天皇は、これを拒否。

 近衛の不審な行動は特高警察もある程度は把握していたが、検挙には至っていない。 

・海軍の利用(これが最も知られていないことかもしれない。私の知る戦後世界では、山本五十六は善玉または英雄的な扱いだった。)

近衛は、アメリカとの戦争開始に向けて海軍を利用した。

 当時のわが国の主だった人達は、アメリカとの戦争を考えていなかった。また、考えている人も、真珠湾はありえないという意見が多かった(これは、素人目にも明らか)。近衛、風見は、山本五十六連合艦隊司令長官を取り込み(あるいは共謀して)、山本に真珠湾攻撃論を唱えさせる(後述)(風見は、終戦後ただちに証拠隠滅)。

・近衛は、敗戦直後にマッカーサーに取り入る工作をするが、うまくいかず(9月頃まではうまく行った。その後正体がばれる)。A級戦犯として裁かれることが決定。出頭命令の最終期限日(1945.12.16)に死亡。青酸カリ自殺とされているが、他殺らしい。近衛は裁判に向けて周到な準備をしていた。しかし結果的に極東裁判は日本側の本当の責任者の罪を審議できなくなった。これは非常に大きな問題。

 

アメリカの直接的な行動

・日中戦争に関連して。盧溝橋事件(1937.7.7)勃発の際には、米政府は軍需品メーカーに対日輸出を停止するよう要請。

・1939.7.26 日米通商航海条約の破棄。航空燃料、鉄鋼、くず鉄の対日輸出停止。(日本の輸出の半分近くはアメリカ向け。ここに40%の関税をかけることは、宣戦布告に近い。)

・1940.9.30 鉄鋼、くず鉄の対日輸出禁止。

・1941年4月の時点で、イギリス、オランダの植民地が攻撃されたら「アメリカは必ず参戦する」ことが議論される。

・7月25日、ルーズベルトは経済制裁を強化。また、近衛から提案されていた首脳会談は絶対に行わない方針(蒋介石も同意)。

・日本の南部仏印進駐(近衛内閣)に対して、英米は日本の資産を凍結。

・1941  5月、西海岸(サンディエゴ)に常駐していた太平洋艦隊を(日本軍が攻撃しやすい)ハワイ真珠湾に常駐させる命令。これに反対した艦隊司令官は解任されている。

・日本向け石油輸出の全面禁止(実際には石油輸出禁止令という法律はつくられていない。しかし、8月1日には全面禁止になっている)。(法案を出せば、議会に知れる。)

 言いかえれば、この時点までは日本に石油を供給していたということ(実はこれ不思議な問題)。

・ハルノートの提示(1941年11月26日)。これはコーデル・ハル国務長官が日本に対して提示した要求メモ。正式の外交文書ではないが、明らかに要求として機能した。日本の要望をすべて無視。仏印からの石油輸入もさせない感じのことが書かれている。

この文書は、ソ連のスパイだったハリー・ホワイト財務次官補の下でまとめられた(実は11月22日時点の文書案はもっとマイルド。しかし、これには蒋介石もチャーチルも反対)。

この文書は、事実上の宣戦布告文書と言われている(和平工作を模索した東條内閣も、開戦にかじを切る)。 

・完全禁油は国家の存亡にかかわることなので、これを行ってはならないというのが常識であった。しかしルーズベルトは、これを日本に対してやった。しかも、米国民(議会)には知らせていない。

 日本としては仏印(現在のベトナム、ラオス、カンボジアを合わせた領域)、マレーシア、インドネシアあたりで資源(石油など)を確保する以外に国家を維持するすべがないのだが、ハルノートは、アジア諸国からの完全撤退を要求。米英と戦争するか、江戸時代レベルの国力にもどって植民地になるのを待つか、を選ばなければならない状況とも言える。

 

日米開戦とその後

・1941.4.25 日ソ中立条約

・12月1日、御前会議で対米戦争開始が決まる。

 東條(陸軍、10月18日から首相)は、開戦1週間前まで真珠湾攻撃作戦を知らなかった(!)と言われている。この御前会議で知ったというのだろうか? 

 海軍内では真珠湾攻撃は山本五十六案として早くから知られていて、ほとんど(99%)の人が反対であった。ハルノートが出されても、アメリカと直接戦うのでなく、インドネシア、フィリピンあたりと“交渉”するなり支配すればよい(石油は確保できる)、という意見が多かった(陸軍案と同じ)。これならアメリカが大々的に乗り込んでくるのは難しいという考え方である(アメリカが日本攻撃論で沸き立つのは、真珠湾のおかげ)。

 山本は意見を変えず、真珠湾をやらないのなら部下全員と共に辞任するという。これを受けてと言うべきか、(真珠湾攻撃に反対であった)永野修身軍令部総長が山本案を裁可する(戦後、永野は巣鴨プリズンで他殺に近いかたちで死亡。その遺品は、妻が持ち帰る汽車の中で奪われる)。 

・12月4日頃には、アメリカは真珠湾攻撃について具体的に把握していた(ハワイには通告せず)。進軍中の艦隊では無線通信は禁止であるが、南雲司令長官や他の艦船の艦長達は無線通信を頻繁に行っていた。攻撃の2-3時間前に、ハワイ短波放送から「目ン無い千鳥の群れ」の歌が流れる???

・12月8日(アメリカ時間では7日)真珠湾攻撃。

・ハルノートについて知らされていないアメリカ国民と米議会は、日本への報復で沸き立つ。ルーズベルト/ロックフェラーの狙いが的中。ハルノートについてはフーバー元大統領も知らなかったので、日米戦争には反対していない。

なお真珠湾で攻撃されたのは老朽戦艦が主で、空母は無かった。所属空母(3隻)は、避難していた(一隻はサンディエゴのドック)。石油タンクを爆撃していない(従来これは、住民を殺すことになるからと言われてきた。しかし、修理ドックも破壊していない)。

・12月9日 蒋介石が、日、独、伊に宣戦布告。

・山本の裏切り(アメリカが活性化した)にもかかわらず、初期には日本軍は頑張っている。1941.12.10のマレー沖海戦では、英国戦艦プリンスオブウエールズ、巡洋戦艦レイパレスを撃沈。その後、香港占領(12月25日)、マニラ(フィリピン)占領(1月3日、シンガポール占領(2月1日)などなど。とくにシンガポールは、白人種のアジア支配の大拠点で、日本軍による占領は人類史的偉業とも言われる。

・1942.6.5 ミッドウエー海戦。なぜミッドウエーなのか? これは、1,000km離れた海上の空母ホーネットから発艦した爆撃機(B25、16機、ドゥーリットル陸軍中佐)が東京あたりを爆撃したことによる(1942.4.18、死者87、負傷者466)。この爆撃は、日本海軍の西進の成功によってインド洋で活動できなくなったイギリスのチャーチルが、日本海軍を太平洋に引き付けるようルーズベルトに頼んで実現。

日本としては、東京空襲を防ぐには、ミッドウエー島を占領して本土防衛の拠点とする必要があると考えた。

しかし、ミッドウエー海戦は惨敗。空母4隻と搭載機のすべてを失う(この時点で残る空母は2隻のみ)。この敗戦の内容は、陸軍には伝えられなかったという(信じがたいことだが)。

・1942  ガダルカナル海戦。8月から12月にまたがる一連の海戦。日本海軍はここで終わったとも言える。なぜこんな所で戦争する必要があるのかと、素人でも思う場所である。

 実は海軍の基本方針は、陸軍と同じく、インド洋で活動するイギリス軍(援蒋ルートの他に、アメリカからの軍需物資をアフリカ回りでスエズ方面に運ぶなど)を抑えることであった。この方針を、近衛、風見、山本が、アメリカとオーストラリアの連絡を抑制する方向へ変えたもの(アメリカと戦争し、負けるために)。これは、真珠湾に次ぐ、山本の2つ目の裏切りとも言われる。 

・日本軍は、占領した国々を独立国として承認している。また、1943年11月5,6日 東條は「大東亜会議」を開催(重光葵が主導)。フィリピン、タイ、ビルマ、インドを含むアジア諸国が、植民地から抜け出す意識を持ったという意味で重要であったとされる。戦地でも、日本軍に負けてみじめな、あるいは卑屈な態度に変わった白人を見て、独立の機運が高まったという。

・1944.3.8-7.3 インパール作戦

・グアムの戦いは、1941年10月と1944年

・1944年6月15日-7月9日 サイパン(全滅、南雲忠一は自決)。

付随してマリアナ海戦(6月19日―20日)が発生。空母3隻、搭載機のすべて、潜水艦も失う(日本海軍は壊滅状態、西太平洋の制海権、制空権を失う)。(このマリアナ海戦では、作戦計画書がアメリカに渡ったことを、参謀長が隠蔽。なんと、そのまま作戦実行。)

・1944年11月23日-25日 レイテ沖(フィリピン近傍)海戦。史上最大の海戦とも呼ばれる。日本海軍は事実上全滅(武蔵は沈没、大和は残る)。

・1944年11月7日 スターリンが満州侵攻の意思表示(実際にはドイツ戦での消耗もあり、終戦間際に侵攻)。

・1945.2.9-3.26 硫黄島の戦い。全滅。その後はこの硫黄島から日本全土を簡単に空爆できるようになった(それまではマリアナから)。

・1945.3.10 東京大空襲(東京空襲は、計106回)。全国の主要な都市への破壊的空爆も始まる。

 3月10日の東京大空襲では、300機を超えるすべてのB29は低空飛行(2,000mほど、通常はありえない高度)で焼夷弾投下(カーチス・メイ指揮官)。日本軍は、砲撃も迎撃飛行機も形ばかり(関東地方には、150-300機の戦闘機があったらしいが)。東京ローズの放送で、「煙が目に染みる」などの曲が流れる(攻撃しない確認のシグナル)。ヨハンセングループの関与(?)

 戦後、日本政府はカーチス・メイに勲一等の勲章を送っている(??)

・1945.3.26-6.23 沖縄戦

・原爆投下(8月6日、9日)「センチメンタル・ジャニー」

・1945.8.14 ポツダム宣言受託(15日に玉音放送すなわち国民に知らせた。ミズーリ号上で休戦協定成立は9月2日。北方領土で、ソ連はこの日まで攻撃を続けた。)

・1945.10.24 国際連合設立

 

補遺(その1)

・当時の日本とアメリカでは、武器だけでなくすべてのものの生産力が違いすぎる。このことは、日本の中枢部ははっきりと知っていた。近衛が、日本が負けることを目的にやったというのなら、日米戦争はその目的にかなっていたと言えよう。

 開戦から2年間でつくられた航空機、空母の数は、

 航空機:日本は44,000機に対してアメリカは182,000機.

 空母:日本は5隻、アメリカは14隻

 軽空母:日本は4隻、アメリカは65隻

・航空機の有効性は、真珠湾やマレー沖海戦で自ら証明していながら(日本軍が投入した飛行機は96機のみ)、大和や陸奥などをつくって、大艦巨砲主義から出られなかった。

(英艦隊には、空母が故障で外れていたという事情もある。)

・兵站は極端に劣っていたとされる。

・また、日本海軍はアメリカの補給船への攻撃をほとんど行っていない(評価点数が極端に低い)。「軍艦と戦う」という美学なのか?

・アメリカ兵士のほとんどは半自動小銃から自動小銃(当時のカービン銃は15-30連発。本格的な自動小銃は、戦後のこと)。いっぽう日本兵は明治以来の三八式と変わらない(6連発だが、1発ずつ操作が必要)。

・ノモンハン戦争でソ連戦車のすごさを見ていながら、対抗できるものはつくれず。

 

補遺(その2)

・東條は、米、英、仏、オランダ等の植民地となっていた国々を独立国として承認。これが独立の基盤となった。日本が戦っていなければ、現在のアジアは無いだろう。(日本軍はアジアの国々の植民地からの解放を目指していた面がある。近衛には無関係なこと)。

・「戦争の準備は、九分九厘まで、近衛及び近衛内閣によって行われた。」(徳富蘇峰,日記)

・負けるための戦争(凡人には想像さえできないこと)! 近衛は個人的な野望のため。風見、尾崎らコミンテルンメンバーは、“敗戦革命”のため。(敗戦時が最も共産革命を起こしやすいらしい。)

・日米戦争に関するフーバーの感想:アメリカは日本に対して「宣戦布告無き戦い」を起こして、結果として満州をソビエトに渡し、支那を共産主義者(毛沢東)に渡した。」

 (満州の大部分は、1949から中国に属している。)

・1951年 解任されたマッカーサーとフーバー元大統領が対談。「日米戦(太平洋戦争)の責任はアメリカにある」ことで合意(対談は1946年という記述もあった。要検討)。

・戦後のことだが(1964)、日本社会党訪中団が日中戦争について謝罪した(風見が企画)。毛沢東の返事は「謝る必要はない。われわれ中国共産党は日本軍に感謝している。日本がもし中国に侵略していなかったら共産党の勝利は無かったし、新中国の成立も無かった」。

・太平洋戦争はルーズベルトが仕組んだものであることは、現在のアメリカの知識人では常識らしい。なぜ日本の常識にならないのか? (第2編に書く)

・戦後に、「一億総ざんげ」という言葉が流行った。東久邇宮俊彦が終戦から2日後(8月17日)にラジオ放送で、「総ざんげ」の発言。続いて9月5日の国会でも発言。責任者をうやむやにする“名言”。

・1952年に建立された原爆死没者慰霊碑(広島)には、「安らかに眠ってください 過ちは繰り返しませぬから」と書かれている。これも、だれの発言か分からない。

 

 

 

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